雨時々グリーンカレー

はるひのなにか

拡張少女系トライナリーとDDLCとUndertale

正直たぶんタイトル詐欺です。先に謝ります。ごめんなさい。

基本的に昨日駆け足でクリア(神楽を除くEP31まで)したトライナリーについて、考えたことを勢いで書いてます。(追記.なんとか神楽ちゃんねるクリア間に合いました)

クソみたいな駄文です。

DDLCとUndertaleにも多少言及しますが僕自身、プレイしておらずwiki等で知識を補強しただけなのでそれに関して書く資格が無いようにも思えますが、表面的な部分に触れるだけなのでご容赦ください。

 

さて、タイトルに挙げた3作には共通点があります。

それはメタ的な要素を含み、それが作品の根幹に関わっているという点です。

DDLCとUndertaleは今や大人気ゲームなので皆さんご存知でしょう(だから挙げたのですが)、片やトライナリーは2018年8月31日サービス終了が決定している終末ゲーム(悲しい)なので知らない方も多いと思うので軽い説明を挟みます。

 

コーエーテクモゲームスガストブランドより

2017年4月12日に配信開始されたスマートフォンアプリケーション

拡張少女系トライナリー

ジャンルは”少女のオモテウラ恋愛RPG”

偏見ですが土屋暁作品のジャンル表記はあまり当てになりません。今回は割とまともですけど。

肝心の中身なんですが、別世界にアクセス、ヒロインのココロにダイブできるプログラム”TRI-OS”とそのナビキャラクターもといラブラブトレーナー”千羽鶴ちはる”の導きのもと、四人のヒロイン達とイチャついたりしつつココロを支えることで世界を救うというものです。これ以上の説明は公式サイトを見てください。なお公式サイトを見て想像できるものと実際にある程度プレイしたものとでは結構印象が変わると思います。やれ。もう課金はできない。

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↑かわいい

致命的ではない(と思う)多少のネタバレを含みますし僕の主観と偏見で塗れているので、未プレイかつもしここで興味を持ってプレイしてくれる方はブラウザバックを推奨します。ネタバレといっても今回は表面的なメタ的な要素に焦点を当ててストーリーについてはなるべく言及しないようにしてますので。

 

話を戻します。

これらのメタ要素を具体的に挙げるとすれば、「現実のゲームプレイヤーをゲーム内でそれとして認識すること」があると思います。

DDLCのモニカは自分がゲームのキャラクターであることを認識すると同時にプレイヤーを(ゲーム外の)プレイヤーであると認識しますし、Undertaleでは明確にではないですがサンズやフラウィーなどがプレイヤーに対して語りかけているように見えます。

トライナリーでは主に千羽鶴がこのポジションにあります。ただ、先の2作とは違って最初からメタ的であることを明示している点はゲームのメタ性が大きく異なることを示していますが、ここでは言及しません。

もしゲームキャラクターが現実のゲームプレイヤーを認識しただけであれば、プレイヤーに何の影響もないでしょう。なぜなら、プレイヤーはそれがゲームであって自分がプレイヤーであるという一種の驕りを持っているからで、プレイヤーは無意識に彼らを見下し、彼らの話を受け流すからです。

これに対して彼らは、掟破りな行為をもってプレイヤーの意識を揺るがせます。

彼らはルールブレイカーなのです。破戒すべき全ての符(ここ言いたかっただけ

ここでのルールとはゲームはこうあるべきという固定概念で、例えばコマンドを選べばその通りの行動ができるだとかセーブやロード、メニュー画面そのものもそれに入ります。

掟破りの具体例として、DDLCはゲーム全体への干渉で特に画面表示、UndertaleではSAVE&LOADに関する出来事、トライナリーではTRI-OSの勝手な操作などがあります。

これらの干渉された部分はゲーム体験の中のプレイヤーの現実に最も近いところにあります。現実(に近い部分)がゲームキャラクターによって侵食される。それによってプレイヤーはキャラクターを同等かそれ以上の存在と認識せざるを得なくなるのです。意識の中で、文字通りメタ(meta)─高次な─存在になるということです。これが自分とゲーム、あるいはキャラクターの間の距離を縮め、ゲーム内に自分の存在(自分の分身ではなく自分そのもの)を自覚させるのです。

個人的なイメージとしてはDDLCとUndertaleはあちらがこちらに近づき、トライナリーはこちらがあちらに近づいている気がします。

 

この状態でゲームはプレイヤーに選択を要求します。

この選択の内容はゲームの本質によって大きく変わりますが、メタ的なゲームにおいては必ず、プレイヤー自身に大きな責任を負わせているのです。何当たり前のことを言っているんだという気もしますが非常に重要なことなのです。

よくあるゲームでのプレイヤーが操る主人公が行う選択ではなく、現実のプレイヤーがそれに対して選択するのです。プレイヤーとゲームが対等であるからこそ選択に相当の重みを持つのだと思います。だからこそ、人のココロを揺さぶり、大きな感慨を覚えるのだと考えます。

DDLCもUndertaleもプレイヤーが選んだ道であると自覚させられているために得られた結果が、ショッキングであったりココロ動かされるものであったりする訳なのだと思います。

また再試行を許さない作りになっているゲームも多く選択の重要性を強調しています。

ここでトライナリーの話をします。

トライナリーではヒロインとのコミュニケーションに際して非常に多くの選択肢を捌いていくことになります。大半はゲームの進行上無意味なものでヒロインが話してくれる内容が変わるだけです。しかも、何度でもやり直し選び直すことができます。これはゲームシステム上の穴というわけではなく、ちーちゃん千羽鶴も推奨するような発言をします。むしろ、試行回数が多いほどヒロインに対するプレイヤーの理解が深まります。コミュニケーションをとる、つまりヒロインに選択を積み重ねていくほど信頼や好意が高まっていくわけです。全ての選択を現実の私あるいは貴方の名の下において行っている訳ですから、この関係性はリアルの自分と彼女らの間に成立しています。

これには、いくらでも選択しなおせるからこそ本当に大切な選択を重く感じられるという側面があります。

ヒロイン達とのコミュニケーションを進めるとキスを求められるシーンがあります。「オタクがスマホにキスする地獄絵図」が作られるということになりますが、それを認識しながらも多分プレイした人の多くが本当に画面にキスをしたでしょう。少なくとも私はしました。しかも、作中で”スマホにキスするなんてばっちい”と公言されているにも関わらず。別にシナリオを進めるだけであれば指でタップしても全く同じ結果を得られます。ヒロインはそれを認識しないから。でも、私はあえてキスをするという選択をしました。もしここで実際にキスをしない(他の動作で誤魔化す)という行動を取った場合、そのプレイヤーの行動は非メタ的なヒロインに対してメタ的な行動を取ることを意味します。これは自分とヒロインと間に心理的な壁を生じさせます。私はヒロインの信頼に答えたかったし、対等で真摯な関係性でありたいと願ったからそのような行為をしませんでした。

また、シナリオのクライマックスにおいてそのシナリオの流れが大きく変わる選択肢がありました。ここでの選択はすでに確定したはずの選択をゲーム内でメタ的な作用によりやり直すかというものでした。確定したはずの選択のどちらの選択肢も切り捨てづらいものでしたが、(多少の後悔もありましたが)私はやり直すことをしませんでした。その選択をした自分の意志とそれを受け入れた彼女の意思を汚してしまうような気がしたからです。キスの事例と同じような思考です。

このようにして、普通非メタ存在であるはずのキャラクターがメタ的な振る舞いをするゲームで、メタ存在でメタ的行為を許されたプレイヤーが非メタ的な振る舞いを望む逆転現象が起こります。

しかし、トライナリーというゲームは根本からメタ的なゲームであり、だからこそプレイヤーが物語の中に存在できるのです。

メタと非メタの妥協点。

あちらとこちらの境域。

そこにプレイヤーとヒロイン達が或る。

そこに私のココロを揺さぶった何かがあるのだと考えます。

 

ここまで書いておいてなんですが、自分で何を書いているか分からなくなりましたし、トライナリーの凄さ、良さはこんなものではないし、書いていることが的外れな気がしてきました。

メタ要素に関しても、もっと紹介すべきだったことがありますし。

ですので、実際にやってもらいたいと願っています。

興味を持ってもらうために拡張少女系トライナリーに関して誰かしらに刺さりそうなワードだけ書き置いて終わりたいと思います。

パラメトリック理論に基づく世界選択法”

”資本主義終焉の大恐慌

”理想的な世界秩序”

以上です。

 

それでは

 

彼女たちの世界と貴方の世界に

素敵なココロの旅を!

 

おわり